世をうぢ山と人はいふなり

趣味のこととか日常のこととか

鬼滅とYOASOBIが気持ち悪いという話。

どこもかしこも鬼滅の刃とコラボしていて、

花江夏樹さんの声を聴かない日は存在しない。

 

いろんな企業がYOASOBIとタイアップしていて、

これまたikuraさんの声を聴かない日はない。

 

『鬼滅』にもYOASOBIにも罪はないのだが、

こんな世の中にはそこはかとない気持ち悪さを感じる。

罪はないというか、個人的には大好き。

鬼滅全巻持ってるし、ファンブックも画集も買った。宇随さん最高。

 

それがなぜなのか、考えてみた。

 

 

一つには、『右に倣え精神』に対する反発感があるのだと思う。

 

自分たち―いわゆるミレニアル世代だろうか―が受けてきた教育の中には

『個性の伸長』という考え方があり、「自分は自分、他人は他人」という

ものの見方を教え込まれてきたように思う。

某ヒットソングの歌詞に「小さなころから優等生」とあるが、

今時そんなやつどれくらいいる?という印象である

 

それに合わせてエンターテイメントの供給が多様化したり、

インターネットを介して共通の趣味の知人と知り合いやすくなったりしたことで、

「みんなが好きなもの」より「自分が好きなもの」を重要視してきたように思う。

 

少なくとも、流行のモノに対しても

自分の尺度で好む・好まないを判断する権利が与えられていた。

 

これは倫理学の観点で言えば『相対主義(Relativism)』の考え方に近く、

(少なくとも私が学んだ数年前には)異文化理解や少数派への配慮の観点から、

現代において重要視されてきた考え方であったはずである。

 

それによって団体行動が苦手な子供が増えたり、

いわゆるエコーチェンバー現象に陥ったりする危険性はあるが、

個人の、エンタメの楽しみ方としては至極健全なものだと思う。

 

これに対して「みんな鬼滅は見るよね」「YOASOBIを聴くよね」という近年の風潮は

いわば時代遅れの『右に倣え』精神の表れに感じてしまうのである。

尤も、上述したような平成的価値観こそ時代遅れで、

令和の時代にはこれこそがスタンダードなのかもしれないが…。

 

 

第二には、これはあまり褒められたものではないのだが、

アングラ文化が表に出ていくことへの抵抗感が強いのだと思う。

 

漫画(あるいは深夜アニメ)とか、インターネット発のコンテンツとかは、

かつては日陰者のインドア派が好むものであり、

世の中みんなに好まれている現状にどうしても違和感があるのだ。

 

以前、野球選手と女性声優が結婚した際に、

「俺たちオタクは教室での居場所を野球部員みたいな陽キャに奪われて、

 アニメや声優に居場所を見出したのに、それすら奪われるのかよ…」

といった趣旨のツイートを見て思わず笑ってしまったのだが

今の世の中にはこれに近いルサンチマンを感じてしまう。

 

実際、数年前に『君の名は。』が流行り、私自身大いににハマった時にも

周囲には「まだアニメなんて見てるの?」という層が多かったように思う。

 

今はそういった人たちも鬼滅を見て涙しているわけで、

なんだかなぁ、という気持ちを禁じ得ないのである。

 

 

こうした現象の背景には、

当然『新型コロナウィルス』というキーワードが存在していて、

エンタメの供給自体が減ってしまったり、

自宅で楽しめる趣味が奨励されたりした結果なのであろうとは想像がつく。

 

『右に倣え』精神それ自体も、

コロナを乗り越えるために一致団結しよう、という潮流にあっているのだろう。

 

ただ、これが今後数年ののちに常態化してしまい、

異文化やマイノリティ(インドア派諸君を含む)への相互理解に対して

邪魔にならないことを祈るばかりである。

 

 

なんだか大きな話になってしまったが、

同じような気持ち悪さを感じている人がいて、

共感してくれれば良いな程度に思っている。

 

尤も、それこそがエコーチェンバーかも知れないけれどね。